「路上園芸」への好きが高じて、偏愛するだけでなく路上園芸鑑賞家として出版やイベントなどの活動も行う村田あやこ。今回は路上にはみだす園芸や植物を独自の視点やキャッチコピーを交えて発信してきた彼女だからこそ見えてきた街の素顔に迫ります。いつもの通り道、その周縁では今日もはみだすものたちが生きながらえているはず。

 

路上の隙間にひっそりと(時には堂々と)はみだすものたち。

街を歩いていると、道のはじっこについ目が留まってしまう。

ガードレールやフェンスの下、マンホール蓋の小さな穴、郵便ポストの足もと、舗装のひび割れ。そうした街角のちょっとした隙間には、カタバミやオニタビラコ、ヒメツルソバといった小さな植物たちが、自然発生的に根ざしている。
そして大通りよりも小道、表側よりも裏側へと進んでいくのが好きだ。

浅草の雷門から、仲見世方面ではなく脇道にそれてみると、小道にひしめく飲食店や家々の玄関先には、鉢植えが並んでいる。時々、鉢では抑えきれなかったのか、鉢の中の一味が、鉢の外に溢れ出していることも。
また渋谷駅から、渋谷ストリームの裏手に流れる渋谷川沿いを恵比寿方面に歩いていくと、川に面したビルの裏側を這うツタや、バックヤードで掃除道具などと一緒に並ぶ鉢植えが目に留まる。

こうした路上の隙間にひっそりと(時には堂々と)はみだす誰かの園芸や植物たちを、「路上園芸」と呼んで、勝手に愛でている。

 

肩の力の抜けた緑の風景に惹かれた


路上園芸が気になり始めたのは、2010年ごろである。

当時、20代半ばだった私。新卒で入社した会社を2年ほどで退職し、これからの仕事人生、何を生業にしていくか暗中模索していた時期。ふと、植物を仕事にしたいと思った。

緑豊かな地方で大学時代まで送った後、上京し、本来の心が求める方向性とは違う窮屈にも思えた社会人生活を送る中で、どこか自然を求めた部分もあったのかもしれない。
最初は、植物で空間を装飾してみたいと、商業施設内に設置された鉢植えや屋内庭園を手入れするアルバイトの傍ら、1年間グリーンコーディネーターの専門学校に通い、園芸装飾技能士の資格も取った。

試行錯誤する日々を送る中でふと、近所の小さな商店の裏手に置かれた鉢植えが目に入った。

雨風で風化したプランターの中で、もともと植えてあったらしき植物と、それを凌ぐ密度で茂る、勝手に根ざしたらしき植物。その中で不穏な笑みを浮かべる狸の置物。
装飾やデザインといった観点から見れば、決して整えられた園芸ではないかもしれないが、生活とともに育まれてきた肩の力が抜けた緑の風景が、なんだか愛らしく、いいなと思えたのだ。

ひとたび意識すると、室外機の上や軒先といった、街中の限られた空間をうまく使って営まれる園芸の姿が次々と目に留まるようになった。

例えば軒先で鉢植えの台になっているものは、自分の住む関東だと清酒のケースやキリンビール、アサヒビールなどが主だが、沖縄に行くとそれがオリオンビールになったりする。鉢に植えられている植物も、当然ながら異なる。路上の鉢植えというささやかなものから、地域性が見えてくることも面白かった。

人間たちもそうだが、植物も植物で、都市の空間でしたたかにしぶとく、生きながらえている。鉢底からはみ出した根っこが舗装の隙間にしっかり入り込んでいたり、鉢の中から周囲の隙間にこぼれ種が根ざしていたり。反対に、別の場所から旅立ってきた種が、鉢に元からいた植物とちゃっかり同居していることもある。

次第に、装飾やデザインといった意図されたものではなく、そうやって人と植物とがせめぎ合って生み出された偶然の風景に、むしろ惹かれていったのだ。
 

脳内大喜利大会によって広がる世界

当初は、そうした気になる風景に出会うたび、ただカメラ付き携帯電話で撮影し、自分で見返してニヤニヤするだけ。どこが面白いのか自分でもうまく説明できず、周りに説明してもポカンとされるのが常だった。

ある時、SNSアカウントを開設し、日々撮りためた路上園芸の写真を、キャッチコピーのようなコメントとともに投稿し始めた。例えば、鍋やトロ箱のように、別の用途で使われていた器が転用された鉢を「転職鉢」。成長のあまり妖怪や怪獣めいてしまった植物を「植物のふりした妖怪」。
 

すべっているかもしれない、ただの一人脳内大喜利大会だが、自分が面白いなと思ったポイントを言葉にして添えてみると、「こういう風景、いいよね」と共感していただける輪はずいぶんと広がった。
自分自身、言語化しようとすると、目の前の対象物の特徴をよく観察するようにもなり、「何に惹かれたのか」がよりクリアになった。


    
転職鉢

植物のふりした妖怪


時々、ライターとして路上園芸にまつわる記事執筆のお仕事をいただくようになり、巡り巡って路上園芸をテーマにした本も出版したのだから、人生何が起こるかわからない。
 

都市の隙間で居場所を生み出していく開拓者たち

私が路上園芸を見ていて一番いいなと思えるのは、都市という人工物に覆われ隅々まで管理された場所で、うまく隙間を見つけて自分たちの陣地を広げていく、人や植物の居場所開拓力。

例えるなら、「駅から徒歩●分、築●年のマンション。家具はIKEAやニトリで揃える」などと、誰かが用意した枠組みを組み合わせるように住まいを作っていくのではなく、「家がないならそこに建てる。家具がないから木を切って作る」みたいなたくましさを感じるのだ。

道沿いの植栽帯で大きく育った木が、よくよく見てみると周囲の木とは様子が違っていることがある。近所の方に話を聞くと、実は鳥が糞とともに運んできた種から育ったものだったり、ご近所さんが鉢から放流したものだったりと、計画外でそこにやってきたケースもある。

こうした流浪の植物たちが、ちゃっかりすまし顔で街路樹のふりをしているのに気づくと、またニヤニヤしてしまう。

ちょっと前に、大阪の中央分離帯で勝手に育ったスイカが「ど根性スイカ」と名付けられ、市役所や植物園で展示された、なんていう出来事もあった。
本来、管理する側からすると望ましくない状態かもしれないが、植物だと「まあ、いっか」とゆるやかに受け入れられたり、ともすれば街のシンボルとして大切にされたりもする。
どこか、その生命力やしぶとさにあやかりたいという願いを抱いてしまうのかもしれない。

一方で、舗装からはみだす植物は、そこに無理して生えているわけではない。たまたま種が落ちた環境が合っていたから、生きながらえているのだ。そこには、種が落ちるだけの隙間と、いい感じに湿った泥がある。そして、ほどよく人間に放っておかれる管理の隙間も存在する。

このように、そこに生えた植物の様子から、街の様々な隙間が可視化される。

ネガポジでいうと、ポジではなくネガ。大通りではなく、小道。中心ではなく、周縁。路上園芸が息づいているのは、街のそうした場所だ。
しかし、周縁こそ、街の素顔が見え隠れするのだ。