国道マニアとして知られるサイエンスライター・佐藤健太郎にとって「番号」とは、国道に興味を持った理由の一つであり、自ら本を出すほどに偏愛の対象でもある。そもそも番号偏愛ってなんなのか。番号を探究し続けている彼ならではの視点でその面白さに迫る。

 

国道が好きなわけ

筆者は化学・薬学分野を専門とするサイエンスライターという肩書で活動している。だが実のところ、世間的には国道マニアとしての方が名が通っているかもしれない。筆者が今まで書いてきた本の中で一番売れているのは、国道マニアの世界について記した「ふしぎな国道」であり、その関連でテレビや新聞にも出たことがあるからだ。これまで稚内から石垣島まで全国を走り回り、国道標識の写真を撮り集めてきた。なんでまたそんなことをと言われそうだが、世の中にはそういう趣味の人間が思ったよりたくさんいるのである。

 

国道3連標識(福島県南会津町)

という話をすると、よく「なぜ国道なんぞに興味を持ったのか」と聞かれるが、毎度答えに困っていた。考えてみれば、筆者は鉄道には興味がないし、同じ道路でも市道や林道には全く興味が湧かない。これがなぜなのかつらつら考えた結果、自分は1から順に番号がついているものが好きなのではないか、と思い当たった。本業の化学も、元素には全て番号がついている。野球でも、昔の選手の顔は覚えていないが、背番号だけはずっと覚えている。人の顔などは覚えられないくせに、松井秀喜の前の背番号55はケアリー、その前は杉浦、吉村……と死ぬほどどうでもいいことはすらすらと出てきたりするので、我ながら実に無駄な記憶領域の使い方だと思う。
今でも野球の背番号は、筆者にとって一番気になる番号である。野球ファンはシーズンオフになると楽しみがないものだが、筆者にとっては新入団選手の背番号予想という一大イベントのシーズンだ。各球団の傾向、選手への期待度を織り込み、あれこれ予測を立てるのはなかなか楽しい。

 

番号に潜む謎

自分が番号好きであるのを自覚してからは、いろいろな番号の由来や、その背景が気にかかるようになってきた。少しずつ調べてみると、これが実に奥が深い。たとえば郵便番号は、地図を見ると非常に奇妙な順番に並んでいることがわかる。番号の上2桁を見てみると、山形は99、秋田は01で、隣県なのに大きくかけ離れている。沖縄は90で始まるが、その次の91は福井というのも不思議だ。
これは、郵便を鉄道で運んでいた時代の名残らしい。郵便の発着量が最も多い東京を起点に、東海道本線、山陽本線に沿って付番してゆき、残った北陸と北日本は南から北へと順に番号を振っていったのだ。

単なる識別の記号でしかない番号に、時として大きな価値が生じることがあるのも面白いところだ。ドジャースの背番号17番を大谷翔平選手に譲ったケリー投手が、お返しにポルシェを贈られたエピソードは大きな話題を呼んだ。123-4567のような覚えやすい電話番号は、ときに数千万円で取引されることもあるという。

番号は社会のシステムに合わせて作られるものだが、やがてシステムの方が変化し、番号の体系に変更が迫られる時が来る。ここで生じる「ひずみ」を観察するのが、番号マニアにとっての「萌え」(もう古い言葉かもしれないが)ポイントの一つだ。

システム変更の影響で生じる「ひずみ」の一つが、欠番の発生だ。例えば国道には、59~100号が存在しない。これは、かつて大都市間を結ぶ幹線国道に1~2桁番号を、それ以外の国道に3桁番号を充てていたためだ。3桁国道のいくつかが2桁に昇格し、生じた欠番は新たな国道指定の際に穴埋めされたが、109~111号、214~216号はその後も埋められることなく残っている。こうした変更の痕跡を実際の道路上で探したりするのも、マニアの楽しみの一つだ。

いわゆる「忌み数」を避けて、欠番が生じることもある。病院に4号室が、ホテルに13階がなかったりするのがそれだ。日本では9も「苦」につながるとして避けられることがあるが、中国では「久」につながる縁起のよい数字とされる。日本人の野球選手は42番を避ける一方、黒人初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンの背番号として外国人選手には歓迎されたりもする。文化により、忌み数も大きく変わるのだ。

通常は生じない「0番」という番号の発生も、番号観察の楽しみとなる。多くの場合、すでにあるシステムの拡張の際に、0番は誕生する。たとえば、漫画本編の前日譚として第0巻が作られることがあり、「ドラえもん」や「呪術廻戦」がそのケースだ。
駅のホームの増設の際、いろいろな事情で0番線ができることがある。盛岡駅・松本駅・京都駅など、0番線乗り場がある駅は意外に多い。海外では、ハリーポッターシリーズで有名になった英国キングス・クロス駅もその例だ。

 

綾瀬駅0番線ホーム

そして番号好きにとって最大の、そしてめったにない「萌え」の機会は、新たな番号が誕生するケースだ。地上デジタル放送開始によるTVチャンネルの移行はそのケースで、番号変更による影響がどう出るか、興味津々で観察したものだ。

2017年には、それまで番号が振られていなかった高速道路にナンバリングが行われた。混乱が少なく、わかりやすい付番体系はどのようなものであるか、頼まれもしないのに地図や海外の例を眺めて思案をめぐらせたりした。しまいには道路マニアの友人と共に「勝手に(自称)有識者会議」を開いたりしたのもよい思い出である。

このような事例をまとめ、一冊の本として書き下ろしたのが拙著『番号は謎』(新潮新書)だ。この本を書くため、さまざまな参考文献に当たったが、驚いたのが番号に関する資料の少なさであった。例えばテレビのチャンネルの番号は誰でも知っているものだが、これがどのように決まったのか、資料を探し出すのにはずいぶん苦労させられた。番号全般について解説した本なども、ありそうでいて一冊も見つけられなかった。番号はあまりにも身近すぎて、改めてその歴史を探ってみようなどと言う人はめったにいないらしい。

このように、番号とは身近でありながら、空気のようにその存在を感じさせないものだ。でありながら、時に番号のために大枚をはたいたり、長い時間行列に並んだりする人が現れたりもする。筆者が番号を通して眺めているのは、こうして道具に過ぎない存在に逆に振り回され、右往左往する人間の心というものの不思議さなのだろうなと思う。